神様・仏様・稲尾様

 先月急死した稲尾和久さんが、新聞連載「私の履歴書」に連載した自叙伝の書籍化。生い立ちからから、プロ入り一年目からの驚異的な活躍をして「西鉄黄金時代」を築いた時期、故障に苦しんだ現役晩年、さらには指導者や福岡への球団誘致などを行った引退後について書かれている。
 ちょうど、現役時代を中心とした活躍は、日刊スポーツのサイトに掲載されている鉄腕人生〜白球とともにで読むことができる。これを読んで興味を持たれた方は、ぜひとも本書を一読することをお勧めする。

 そこに書かれている、活躍の凄さは、改めて驚くよりない。その中で、特に印象に残った逸話をいくつか紹介する。
 まず、書名にもなった「神様、仏様、稲尾様」という言葉が誕生した逸話についてが面白い。舞台は1958年日本シリーズで3連敗の後、4連投4連勝で逆転日本一になった時である。それについて、本書では当人ならではの描写で述べられている。
 それは1勝3敗で迎えた第5戦のこと。3点リードされながら、9回裏に追いついて延長戦に。そして4回から救援登板していた稲尾投手が、11回裏に自らサヨナラ本塁打を放って試合を決めた時だった。興奮したファンがグランドに乱入するのだが、そのうちの一人が、西鉄ライオンズベンチの上で「神様、仏様、稲尾様、救いの神の稲尾様」と三拝九拝、それが新聞の見出しとなったとのことだ。
 そして、この「神様」は、当時の福岡において、普通名詞のように使われていたらしい。それを示す逸話がまた面白い。
 入団二年目から四年目まで連続で30勝以上した稲尾投手だが、その四年目シーズン終了後に結婚すると、翌年は成績を落とした。すると、買い物先で奥さんが、「神様、結婚してから調子が悪いのね」と嫌味を言われた、という話を紹介している。そのくらい、「神様」という言葉は福岡の家庭に浸透していたようだ。
 しかし、この「嫌味のネタ」自体が実は驚異的な話であったりするのだ。この逸話を紹介した後、稲尾氏は自らもその年の成績を「不甲斐ない」と評している。しかし、その成績とは、20勝7敗で防御率は2.59というものである。今年のセリーグなら、勝数・防御率とも1位で、勝率・奪三振とも2位という、MVP級の数字だ。しかし、当時の稲尾投手にとって、それは買い物先で夫人が嫌味を言われるほどの「不甲斐なさ」だったわけである。そして翌年、稲尾投手は42勝というプロ野球記録を達成した。

 しかし、最初の8年で234勝したものの、翌年に故障してからは、稲尾投手にとっては苦難の投手生活となる。結局、14年目の1969年に引退、翌年から監督となるものの、これまた苦難に満ちていた。「黒い霧事件」での戦力離脱もあってチームは下位に定着した挙げ句、ついには身売りに。そして、新フロントとの軋轢もあり、1974年には退団となった。このあたりの、苦難の歴史は、読んでいて辛いものがあった。
 それを最後にライオンズを去った稲尾氏は、ドラゴンズのコーチを三年務めた後、西武に身売りして移転したライオンズに代わる球団を福岡に誘致する運動を行う。そして、その動きに乗る形となったロッテオリオンズ(当時)の監督となる。そして、2位・2位・4位とかなり優秀な成績を残したが、ロッテ球団の福岡移転が消えた事により、退団した。
 短い監督生活だったが、大手術を経験した村田兆治投手を「サンデー兆治」として復活させるなど、指導者さらにはファンサービスにも長けていた。特に、現ドラゴンズ監督である落合選手とはかなり気があい、野球について深く語ったとの事だった。
 その中で印象に残ったのが、監督就任直後にその落合選手と飲みに行った時の話だった。既に三冠王を経験し、「オレ流」の異名を持っていた落合選手に対し、稲尾新監督は、
「これに勝てば優勝という試合で、九回裏ノーアウト一塁、1点取ればサヨナラの場面だ。そこでおまえが打席に立ったらどうする?と尋ねる。
 それに対し、「そりゃあバントでしょう」と落合は即答した。「お前、四番やぞ」と重ねて問いただしたが、「1点とりゃあ勝ちなんですから、バントです」と答えは変わらない。との事だった。
 もし今年の日本シリーズ第5戦の解説が稲尾氏だったら、山井投手が8回を投げ終えた時点でこの逸話を紹介し、それゆえに9回の交代時にも視聴者は即座に納得したのではないだろうかと、この逸話を読んだときはつくづく思ったものだった。

 驚異的な記録を多数保持している大投手の伝記としても十分に読み応えがある。しかし、その後の選手が離脱する中で身売り直前の球団を率いる苦難や、再び福岡に野球チームを呼び戻すための努力などがまた、印象に残った。
 あらためて、球史に残る偉大な存在である、ということを再認識させられた一冊だった。